photo: Satoshi Nagano

「ふくちのち」を聞く その3ー農家から見た福智の暮らし

2017/03/17

「ふくちのち」フィールドワーク第3弾。民俗学者の菊地暁先生が、福智町で暮らす人たちのオーラルヒストリー(=地域の歴史を知るため、まちの人に聞き取りを行い、記録すること)を書き綴ります。個人史から、福智町の歴史とともに歩んできた人の暮らしを見る試み。あるくだけでは見えてこない、どんな「ふくちのち」を聞くことができるでしょう。最終回となるその3は、赤池町上野の農家・定宗義孝さんを訪ねました。

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農業を営む定宗義孝さん photo: Satoshi Nagano

祖父は川ひらたの船乗りだった

まずは、定宗家の歴史からお教えいただけませんか?

定宗:珍しい苗字でしょう。一度調べてみたのですが、京都にも同じ苗字の人がいてね。電話をかけて聞いてみたのですが、残念ながら関係はなさそうでした。福智町には定宗家が何軒かあるんですが、分かれたのはかなり昔と聞いています。次男だった祖父が分家してこの家ができました。本家はすぐ上にありましたが、娘ばかりで跡継ぎ不在で絶えてしまいました。うちの屋号は、宝のような田んぼで「宝田」。代々農家です。だけど、田んぼも分家のたびに分けていったので、ずいぶん小さくなってしまいました。だから副業しないといけない。農閑期には土木作業、昔でいうヨイトマケ(重しで地盤を突き、地固めを行う労働)に出て日銭を稼いだりしました。

自分が小学1、2年のときに祖父が亡くなったのですが、祖父は石炭船の船乗りもしていたと聞いています。鉄道ができる前は、明治炭坑が採掘した石炭を彦山川までトロッコで運び、そこから「五平太船(ごへいたぶね)」や「川ひらた」と呼ぶ、底の平たい船に載せて海まで運んでいたそうです。小さかったので、祖父が船乗りをしていた記憶はないけど、話には聞いていましたね。

父は大正6、7年生まれで、若くして戦争に行きました。帰ってきた頃には、祖父のやっていた五平太の仕事はなくて。なので、農閑期は母と一緒にヨイトマケ。野菜を売りに行くこともありました。炭坑にたくさん人がいたので、野菜が飛ぶように売れましたね。朝、このあたりからリヤカー部隊が何台も炭坑に向かうんです。それぞれお得意さんがあって。売ったのはニンジン、ダイコン、白菜、高菜漬け。朝鮮から来た人たちが住む場所では、白菜がよう売れた。みんなキムチをつくってたんですね。

私も子どものころ、リヤカーで運ぶのを手伝ったものです。帰りに炭坑のお店でお菓子を買ってもらえるのがうれしくてね。今の中尾保育園のあたりに大きな売店があって、なんでもそろっていた。服なんかもそこで買って。炭坑では賃金の半分が構内だけで通用する金券で支給されていました。それをそういう売店で使うんです。ほかにも炭坑直営の安い映画館があったりお風呂があったり。炭坑のお風呂は大きくて気持ちがいいけど、ちょっと時間がずれると、坑夫の後になって石炭で湯船が真っ黒になる。

道路でも病院でも、炭坑があるおかげで立派に整備されていました。子どもの頃は炭坑の人たちの景気が良かったから、子どもでも百姓の子より炭坑の子のほうが良い服を着てましたね。炭坑の人たちが上野の山に紅葉を見に来たりして遊んでいるのを余所見しながら、土日も畑仕事の手伝いをやらされて、子どもながらにうらやましく思ったものです。

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photo: Satoshi Nagano

彦山川の河川敷に牛をつないで草を食べさせた

農家にとっても、炭坑の存在は大きかったわけですね。ほかに、どんなお仕事をされましたか?

定宗:ここは炭坑がある関係でいろいろな資材が手に入りました。レンガも炭坑の工場でつくるので安いですし。家の塀にも使っています。ボタ山が自然発火したあとにできるシャモットは道普請に使いました。七輪や風呂釜の燃料には豆炭や炭団(たどん)を使いました。石炭の選別で水洗いをすると、粉が沈殿して。その粉をろ過して、たまったのを再利用したのが豆炭や炭団です。業者が加工するものもあったし、粉を馬車でもらいに行って、自分たちで加工したこともありました。馬車が落としていったのを拾うこともあったね。

農耕用に、牛も飼っていました。台所のある土間のすぐ横に牛小屋があって、食べ残しを与えてました。蝿がいっぱいになるんだけどね。馬を飼う家もありましたね。よけいに草を食べるけど、そのぶん馬力があったので。牛は彦山川の河川敷につれていって、草を食べさせたんです。小学校に行く前に連れていって、学校帰りに連れて帰るのが子どもの仕事。親から「土手の向こうの草原につないでこい」と言いつけられて。杭を打って、20~30メートルの縄につないでおくと、昼間、牛が勝手に半径20〜30メートルの範囲の草を食べた。メス牛が多かったので、牛同士でケンカすることはあまりなかったですが、杭をちゃんと打たないと脱走するんですよ。そうすると村中を探すハメになってしまい。直方の方まで牛が行っていたこともありましたねぇ。

育てた子牛を仲買人に売ることもありました。それが臨時収入になったんです。不思議なことに、牛飼いが来ると、親牛が泣くんです。子牛が売られるのがわかるのでしょう。親牛が、玉のような涙を流すんですよ。それが子ども心に悲しくてね。だけど、お小遣いがもらえるので、それはうれしかった。複雑でした。牛を飼っていたのは耕耘機(こううんき)が入る前まででした。昭和30年代の終わり頃には牛はいなくなりましたね。

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photo: Satoshi Nagano

イエヤジのいる家

住まいや周辺の環境はどのように変わりましたか?

定宗:今の家は十数年前に建て替えたものです。その前の家は安普請なもので、屋根はセメント瓦で、屋根の上を歩くとバリっと割れた。土間の上は天井板もなく、梁がむき出しでした。その梁の上にはイエヤジがいました。イエヤジはイエのオヤジのこと、正体は白い蛇です。ときどき上から小便をしたけど、それ以外に害もなく、追い出そうとはならなかったですね。ネズミも食べてくれたし、イエヤジのいる家は安心と言われていました。

家の前の川を地元では「ヤマガワ」と呼んでいます。ヤマガワは河川改修で流路をまっすぐにして、その分、田んぼを広げましたが、もともと川底には砂利やらが堆積していて、カニやウナギが獲れました。用水路にもいろいろな生き物が棲んでいて、川遊びで捕まえたものが、晩のご馳走になって。ヤマガワは福智山からそそぐ谷水ですが、地下水として地中にも通っています。水路に水が通らないときも、砂利の下には水が流れています。

飲み水は井戸水でした。このあたりは5メートルほど掘れば水が出る。今でこそ飲み水は水道ですが、井戸水は洗車などに使っています。水道が引かれたのは昭和37、8年頃ですね。炭坑に近いまちの方のインフラ整備は周辺の農村より早くて昭和20年代半ばでした。このあたりより上の方、上野焼の里で有名な上野峡のあたりに水道が引かれたのはごく最近です。

このあたりの集落は上野の「三区」と言います。150軒ほどあるのですが、風水害は全然ありません。記憶にあるのは昭和28年の大洪水くらいです。遠賀川、英彦山川が決壊して、家の前の田んぼも冠水しましたが、それ以降はほとんど何もありません。立地の良いところなんでしょうな。氏神は福智宮です。上野の全領域が福智宮の氏子圏。福智山の頂上に上宮があり、上野峡に中宮がありますが、普段のお参りは下宮である福智下宮神社です。秋のお祭りの時に中宮まで行って、神輿は今でも担いでいます。

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上野焼の湯呑みでお茶を出していただきインタビュー photo: Satoshi Nagano

上野に生まれ育った定宗さんは、どのような想いで地域を見てるのでしょうか?

定宗:私は昭和19年生まれで、小中学校は地元の上野小学校、赤池中学校に通ったのですが、高校は汽車で田川農林高校まで通いました。黒部ダム建設を描いた映画『黒部の太陽』を見て感動し、「トンネル掘りたい」と思って農業土木科を選んだからです。校舎の窓から香春岳が見えるのですが、石灰採掘が始まって、香春岳の南端にある一ノ岳がみるみる削られていきまして。「これは記録にしておかないと」と思い、前と後で写真を撮りました。飾るほどのものではないですが、2枚の写真とも今でも保管してあります。

高校卒業後は直方市役所に務めて、その時に結婚し所帯を持ちました。しばらくして役所を早期退職したのが40代の頃で、20年以上が経ちます。今は、地域活動に取り組んでいます。やり始めるとキリがないくらい、やることがいろいろあります。どこでもそうですが、このあたりも少子高齢化は問題です。独居老人と空き家が増えましたね。ここはもともと農村ですが、新興住宅やアパートが増え、隣組に入らない人も多い。目の行き届かないことも増えました。そこで組織したのが「見守り隊」。住民の健康寿命を延ばすことを目標に、見回り活動をしています。お酒に誘って、賛同してくれる人を増やしたり、あの手この手で巻き込んで(笑)。とにかく、地元で自主的に活動していくことが大切だと思っていますね。

地元で生まれ育ったからこそ、今見えている風景だけでない土地の記憶を大事にされているように感じました。ありがとうございました。

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高校時代の定宗さんが撮影した採掘前の一ノ岳(左)と採掘が始まった一ノ岳(右) photo: Satoshi Nagano

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写真好きの定宗さんに先輩がくれた汽車と香春岳 photo: Satoshi Nagano

聞き取り後記

聞き取りを終え、「三区」と呼ばれる集落を歩いてみました。「三区」という地名からはなかなか土地の特徴を読み取ることが難しいですが、実際に歩いてみると、「三区」は2段階のひな壇状に集落が形成されている地形の豊かな地域でした。このひな壇の地形は、福智山からそそぐ谷水「ヤマガワ」によってできた河岸段丘に由来していると思われます。

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手前と奥で宅地に高低差がある photo: Satoshi Nagano

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もっとも高い段丘上にある戸渡神社 photo: Satoshi Nagano

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戸渡神社の横に畑と近世からの墓石が多く残る墓地 photo: Tomoki Homma

1番高い段丘上には、里社である戸渡神社が鎮座し、畑などの耕作地や、近代以前の古い墓石が残る墓地があり、古くから続いていそうな屋敷が散見されました。2段目の段丘には南向きにゆったりとした前庭をもつ屋敷が列状に並び、その前を、段丘の縁をなぞるように緩やかなカーブを描きながら、道が横断しています。この道は、福智下宮神社の前の「宮馬場」という交差点に続いており、下宮の参道軸線が、「三区」の集落軸と一致しており、実は「三区」は単なる農業集落ではなく、古くから下宮の門前町としての性格があるのではないか、などと推測を交わしながら歩きました。

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奥に行くにつれて緩やかなひな壇を形成する集落景観 photo:Tomoki Homma

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3区の主要道は地形に沿ってカーブを描く photo: Satoshi Nagano

その道を通って、宮馬場の交差点を渡り、福智下宮神社に向かいます。一の鳥居に、まっすぐ密実に締め上げられた注連縄が印象的です。参道を進むと、静謐な社叢に囲われた境内に入ります。天保13年(1843)に改築されたという拝殿がひっそりと鎮座していました。

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福智下宮神社 photo: Satoshi Nagano

福智下宮神社は、『福岡県神社誌 下巻』(大日本神祇会福岡県支部、昭和20年、p.187)によれば、創建は慶雲4年(707)。氏子区域は赤池町上野で、戸数は260戸。一の鳥居の裏には、氏子区域と思われる里名が記されていました。

小路、今ヤシキ、大久保、ホリ田、山嵜、原田、ヤク王寺、中里、別所(里)、上里

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福智下宮神社一の鳥居に記されたかつての里名 photo: Satoshi Nagano

今でこそ数字で管理された区の名前ですが、かつての地名は土地の性格を表していたことがわかります。さらに二の鳥居の前にある石灯籠(式日燈)には、明治23年に建立に寄進した上野の船乗り(舟持)たちの名が連ねてあり、上野には、上野焼の窯元や農家だけでなく、かつて彦山川(遠賀川)の水運を担った舟持ちが暮らしていたという歴史の傍証に触れることができました。

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基壇に舟持の名が連なる式日燈 photo:Tomoki Homma

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photo: Satoshi Nagano

このように、石に刻まれた記録からも昔の集落の様子や生業が伺い知ることができ、定宗さんのオーラルヒストリーによって聞いた土地の記憶と、実際にフィールドワークで歩いて自分たちの目で見る風景がリンクしていく瞬間でした。

菊地暁[民俗学者]
京都大学人文科学研究所助教、博士(文学)。民俗学とは人々の「しょーもなさ」と「せつなさ」に寄り添い続ける学問であると思っている。調査地は大日本帝国をカバーしつつあり、調査テーマも「どっからでもかかってこい」状態になりつつある。著書『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』(2001)、編著『身体論のすすめ』(2005)、共著『今和次郎「日本の民家」再訪』(2012)など。

本間智希
京都を拠点にフィールドワークをベースに活動するリサーチャー。静岡山奥の祖母の家に憧れつつ東京郊外の団地で育ち、早稲田大学で建築史を学び、京都で建築リサーチ集団RADに参画。最近では千年つづく村を歩きまわり、よくドローンを飛ばしている。いいタイルやトタンを見ると思わず触れてしまう。

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