photo: Satoshi Nagano

「ふくちのち」を聞く その2ー食堂から見た福智の暮らし

2017/03/12

「ふくちのち」フィールドワーク第3弾。民俗学者の菊地暁先生が、福智町で暮らす人たちのオーラルヒストリー(=地域の歴史を知るため、まちの人に聞き取りを行い、記録すること)を書き綴ります。個人史から、福智町の歴史とともに歩んできた人の暮らしを読み取る試み。歩くだけでは見えてこない、どんな「ふくちのち」を聞くことができるでしょう。その2では、元方城町伊方で、なかよし食堂を営む福田ヤス子さん・正人さん親子にお話を聞きました。

fw_3-2_1
なかよし食堂・福田ヤス子さんと正人さん photo: Satoshi Nagano

「なかよし」お客さんに愛されるようにという気持ちをこめて

こちらは、福智町出身のタレント・IKKOさんもイチオシの地元食堂として有名ですね。どういった経緯で店を始められたのでしょうか?

ヤス子:私は福智の出身ではありません。生まれは香川県多度津の農家、8人兄弟の長女で、終戦後に戦争から帰った父が赤池炭坑に就職して、家族を方城町も呼び寄せたのです。小学4年生でした。当時、このあたりは藁葺きばかりで。金田の駅からずっと歩いて、大変でしたね。中学を卒業して、飯塚の保育園に住み込みで働きました。働きながら、編み物を習ったりもしました。そのうちに結婚して。夫は炭坑の野球部の投手で。カッコ良くて、やさしかったですよ。ただ、遊びごとが好きだったのが玉にキズでしたね。当時、炭住(炭鉱住宅)には30年ぐらい住んでいましたが、生活しやすかったですよ。炭鉱関係者は、燃料費がかからなくて、豆炭(まめたん)を会社で支給されて、馬車で配達してきました。燃料は豆炭や炭団(たどん)ばかりでしたね。

結婚した頃は炭坑の景気も良かったけど、だんだん落ち込んで閉山になって。その時、神戸の、三菱製紙の野球部から声がかかって、そちらに入るつもりで神戸に行きました。なので、昭和35年生まれの長男の正人も生まれは兵庫県です。昭和35年生まれ。ところが夫が病気で亡くなって。息子を連れて、また伊方に戻りました。そうして始めたのがこのお店。お客さんに愛されるようにという気持ちをこめて、「なかよし」という名前にしました。それから53年になります。

fw_3-2_2

fw_3-2_3
家族アルバムを見せてもらいながら photo: Satoshi Nagano

最初は子どもたちがおこづかいで買えるものを

開店まで紆余曲折あったんですね。お店は今のような定食屋さんですか?

ヤス子:いえ、最初は子ども相手のお店でした。昔は今の10倍くらい、子どもが多くて。その子どもらがおこづかいで買えるようなものをと。お好み焼きは1枚10円、焼きそばが30円。お好み焼きや焼きそばの味付けは神戸で覚えたから、関西風かもしれないですね。その後、肉マン、回転焼き、蛸焼きなども始めました。朝8時から夜9時まで、忙しいので兄弟にも手伝ってもらって。とにかく、よく売れたわ。今の20倍は売れていたかしら。毎日、トロ箱入りのイカ1箱分は焼いていました。

当時は炭坑が閉山したことで、生活保護を受けている家庭が多かったですね。そういう家の人は、毎月1日に役場にお金をもらいに行って。そんな家の子らも、よく来てくれていました。昔の子どもはやんちゃだけど、素直でしたね。

fw_3-2_4

fw_3-2_5
photo: Satoshi Nagano

正人さんは子どもの頃は、どんなところで遊んでいましたか?

正人:弁城ダムに泳ぎに行ったり、川で魚を捕ったりして遊んでいた記憶はありますね。「どんど淵」に飛び込んだり。小学校に入ると学校にプールがあったので、そこに泳ぎに行きました。高校から北九州の方に通学していました。バイクの免許がとれたので、金田駅までバイクで行って、あとは電車で。大学は行橋の方に通っていました。
ヤス子:息子も大学卒業後、姫路のおじさんの食堂で3年ほど修行をして調理師免許を取って、それからここを手伝ってくれるようになりました。

fw_3-2_6

fw_3-2_7
親子なかよく並んだ調理師免許証 photo: Satoshi Nagano

パチンコ屋に歩いて焼きそばやお好み焼きを配達した

いまのような定食屋になったのはいつ頃からですか?

ヤス子:前のお店が道路の拡張にかかり、今の場所に移転しました。当時はまだこのあたりには炭住がたくさん残っていました。16年前のことです。それからは今のメニューです。
正人:お米は野添や弁城の農家と契約して直接買ってます。野菜類は田川市あたりの市場で。冷凍食品なんかは飯塚市から買っています。
ヤス子:お弁当の配達もありました。閉山したといってもまだ人はいたし、お店も多かった。当時は歩いて配達して。方城町の八幡町には商店街があって、スーパー、呉服店、洋服店、床屋、パチンコなんかが5、6軒はあって。焼きそばやお好み焼きの配達でパチンコ屋に行くこともありましたねぇ。方城町の農協の有線放送にも配達しました。今は自動車で田川市あたりまで配達してます。日立マクセルの工場は炭坑閉山後にすぐに来ました。なので、工場に届けることも多かったです。最近は工場に食堂があったり、外で食べる変える場所が増えたので、配達も少なくなりましたけどね。

fw_3-2_8

fw_3-2_9
地元の人でないと食堂とわからないような素朴な外観 photo: Satoshi Nagano

のんびりしていて住みやすい土地

50年以上もお店を続けられているわけですが、どんな変化がありましたか?

正人:お客さんの数は減りましたが、今のお客さんで多いのは土建屋さんですね。
ヤス子:まちの様子で変わったのは、家が新しくなったのと、道路がアスファルトになったことね。アパートが増えて、よそから入ってきた人もけっこういますね。8割が土建屋さんかな。
正人:まあ、のんびりしていて住みやすい土地です。高校の同級生でも、まちを出たのは4割ぐらいで、残っているほうが多いぐらいです。出ても福岡市あたりまで。そんな遠くには行ってません。みんな出ていきたがらない。天災も少ないし、大きな発展もしないけど、平和で静かな良いところです。

今日はありがとうございました。「IKKOどんだけチャーハン」、美味しかったです!

fw_3-2_11

fw_3-2_10
IKKOどんだけチャーハンとメニュー photo: Tomoki Homma

fw_3-2_12
photo: Satoshi Nagano

聞き取り後記

ヤス子さんが、このあたりの家にも井戸水はあったが水質がそんなにいいわけではなく、掘りすぎると金気の多い水になる、あまり掘らないと雨水ばかりで衛生的によくない、とおっしゃっていました。炭坑があったことで、町内でも早くに水道が引かれたそうです。特に水をよく扱う食堂を営まれていたからこそ、水の変化には敏感だったのではと、お話を聞いていて思いました。

なかよし食堂は、フィールドワーク第1弾の「空から福智町をみてみよう その3」でドローンを飛ばした伊方古墳の道路を挟んで向かいにあります。今回もたけやんから特別に許可を得て、墳丘の頂上まで登らせていただきました。伊方の町が一望できます。

fw_3-2_13
photo: Satoshi Nagano

fw_3-2_14
伊方古墳の墳丘から町を望む photo: Satoshi Nagano

なかよし食堂は、素朴で温かいヤス子さん・正人さん親子のように、古墳のすぐそばにつつましく佇んで、今も変わらぬ地域の味を届けています。

菊地暁[民俗学者]
京都大学人文科学研究所助教、博士(文学)。民俗学とは人々の「しょーもなさ」と「せつなさ」に寄り添い続ける学問であると思っている。調査地は大日本帝国をカバーしつつあり、調査テーマも「どっからでもかかってこい」状態になりつつある。著書『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』(2001)、編著『身体論のすすめ』(2005)、共著『今和次郎「日本の民家」再訪』(2012)など。

本間智希
京都を拠点にフィールドワークをベースに活動するリサーチャー。静岡山奥の祖母の家に憧れつつ東京郊外の団地で育ち、早稲田大学で建築史を学び、京都で建築リサーチ集団RADに参画。最近では千年つづく村を歩きまわり、よくドローンを飛ばしている。いいタイルやトタンを見ると思わず触れてしまう。

一覧に戻る