photo: Satoshi Nagano

「ふくちのち」を聞く その1ー畳屋から見た福智の暮らし

2017/03/09

「ふくちのち」フィールドワーク第3弾は、民俗学者の菊地暁先生とともに、福智町で暮らす人たちのオーラルヒストリー(=地域の歴史を知るため、まちの人に聞き取りを行い、記録すること)を実施しました。オーラルヒストリーによる個人史から、福智町の歴史とともに歩んできた人の暮らしを見ていきます。歩くだけでは見えてこない、どんな「ふくちのち」を聞くことができるでしょう。その1では、金田本町で「松山内装」を営まれている松山範昭さんにお話をお聞きしました。

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松山内装の松山範昭さん

松山の武士から筑豊の農家へ。畳屋を始めた祖父と刀鍛冶の大叔父、炭坑勤めから畳屋を継いだ父

松山内装さんは、もともと畳屋だったそうですね。

松山:ええ。ウチのお店は明治38年、祖父が始めたものです。ウチの家系はもともと松山の武士だったらしいのですが、秀吉に従ってこちらに来て、(旧金田町の)神崎で代々農家をしておりました。その農家生まれの祖父が、17年間京都で修行して、こちらに戻って始めたのがこの店です。お店は昔からここで、敷地も今と同じ112坪。店舗、工場、畳の材料にする藁の倉庫があり、農家から買った藁が積んでありました。大正10年に棟上げした時の写真が残っています。

ついでに言うと、祖父の弟は刀鍛冶で、日展に入選し、皇室にも献上したそうです。出征の際に刀を打ってもらったというまちの人はたくさんいて、父も叔父の打った刀を持って出征しました。終戦後、満洲で油紙に包んで埋めたそうです。刀鍛冶の弟子たちが建てた記念碑が神崎の墓地にあります。

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大正10年棟上げの時の写真

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大正10年の頃と同じ本町通にある現在の店舗

お祖父さまとその弟さまは手先が器用だったんですね。それで、その畳屋さんをお父さまが継がれ、さらに範昭さんが継がれたということでしょうか?

松山:そこには紆余曲折があって。大正3年生まれのオヤジはもともと赤池炭坑の事務職だったのですが、3回ほど軍隊に行っています。オフクロと知り合ったのも、軍の仕事で行った先の台湾でした。だから私の姉は台湾で生まれています。その後、小倉の北方の連隊で教官を務め、太平洋戦争は満洲で終戦を迎えました。なんとかシベリア送りをまぬがれ、逃げ帰って来たのですが、栄養失調で体はボロボロ、すぐにはこちらまで帰れず、前原(糸島市)の親戚のところで養生して、ようやく神崎に帰ってきたそうです。帰国してからも炭坑の事務をしていたのですが、祖父が体調を崩した際、一家で金田本町に引っ越しました。しばらくはここから炭坑に通っていたのですが、そのうち、定年前に退職して、店を継ぎました。

そのお店を範昭さんが継がれた、と。

松山:そう。私は昭和17年の生まれ。最初は炭坑の職員住宅に住んでいて、ここはもともと祖父母の家でした。私は高校(田川東高)まではずっと地元。大学で福岡に出て、東京オリンピックの年に大阪で就職しました。3年ほど自動車のセールスをしていたのが、そろそろ継いでほしいというので、昭和42年に地元に戻りました。で、私の代から内装の仕事も手がけるようになって、今ではそちらがメインになっています。

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炭坑町の畳屋

畳屋のお仕事はどんなものだったのでしょう?

松山:このまちには畳屋が何軒もありました。たくさん人がいて、それだけ需要があったのでしょう。今はウチともう1軒だけです。昔は畳を1枚1枚、職人が手作業でつくっていました。住み込みの職人も7〜8人いて、御飯も職人さんと一緒に箱膳で食べていました。カマドも大きいのがあって。オフクロはお三度(おさんどん)で大変だったと思います。

大仕事なのは炭坑の長屋の畳替え。上野、弁城、赤池の炭坑など。1000枚、2000枚という単位の仕事になるので、いよいよ多い時はほかの畳屋と組んでやる。職人さんは棟梁株の大工と同じくらいの高額な日当が出たそうです。作業台を自転車の載せ、長屋まで行って作業しました。畳の藁は近場の農家に買いに行きました。上野や弁城の農家さんが多かったですね。田んぼに稲積(とうしゃく)が積んであって、それをリヤカーに載せる。リヤカーは炭坑の鉄工所に特注でつくってもらった頑丈なもの。家族みんなで必死に押して運びました。

田んぼにコンバインが入ると、畳表用の藁が採れなくなりました。藁をくずにしてしまうので。一時期、韓国、中国から藁を輸入しましたが、品質が悪く使い物にならなかった。ダニの卵がいて、梅雨時の湿気で孵ってしまう。今は藁の畳はほとんどつくりません。木の繊維質を加工した合成繊維を使います。つくるのもコンピュータ制御の工場です。機械化で単価が下がったし、昔の職人よりも今のコンピュータのほうが良い仕事をしています。

職人よりコンピュータなんですね(笑)。

畳屋と置屋の時代

当時のこのあたりはどんな様子でしたか?

松山:なんといっても、ここは炭坑のまち。金田町は田川地区全体の中心で、赤池や方城の炭坑があったので、みんな金田町に買い物や遊びに来ていました。朝鮮動乱からずっと、石炭景気で町全体が活気づいていました。金田町史に載っている昭和38年頃の地図(金田町教育委員会編『金田町史』1999年、pp.1004-1005)は、商店街がピークを迎えた頃のものです。この店の前の通りが本町通で、裏の通りが新町通。合わせて300軒以上の商店がありましたね。商店街でネオンを一斉につける「ネオンまつり」という催しもありました。

ウチの店の裏には映画館がありました。夜、部屋にいると音が全部聞こえてくる。東映のチャンバラなんか。当時、この辺りだけで映画館は3軒あって、それ以外にも炭坑のロウカン(労働会館)がありました。子どもの頃に全部行きました。『怪傑ハヤブサ・ヒデト(隼秀人)』なんかを観ましたね。銭湯もたくさんありました。当時は風呂のない家が多かったので。銭湯だけでなく、炭坑の風呂はとても大きく、プールみたいで、親が炭坑に勤めている友人と一緒に炭坑の風呂に行ったものです。遊ぶところはダンスホールやビリヤード場があり、あと、少し後になって、露天掘りの跡地にボーリング場ができました。麻雀なんかは自宅ですることが多く、それで顔見知りの若い連中も多かったです。

あとは飲み食いの店。いわゆる歓楽街は本町が先で新町が後。新町は、レンコン掘だったところをボタで埋めてまちができた。料亭もあり、芸者さんもいました。ウチの店でも、裏の建物で置屋をやっていたそうで、子どもの頃には芸者さんの太鼓も残っていた。置屋はその後、畳職人の住まいになったのですが、元芸妓と結婚した職人さんも住んでいましたね。

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昭和38年の金田商店街の地図には所狭しと商店が並ぶ

まちづくりと弓道

範昭さんはまちづくりにも携わっておられますが、どういった活動をされているのですか?

松山:まちのことに関わるようになったのは、大阪から戻ってしばらくした昭和44年くらいのこと。炭坑の閉山で活気がなくなっていたのをどうにかしたいという想いで、商工会の青年部を立ち上げました。その後、閉山後に中止になっていたお祭りの山笠を、商工会で復活させて。その流れが拡がり、今では金田全体で6基の山笠が出るようになりました。平成2年には金田のまちづくり会を立ち上げました。30人ぐらいからスタートし、会合を重ねています。炭坑が出て行ったあとの代わりになる産業・企業がない、というのがこの地域の課題ですね。

ところで、弓道もたしなまれるとお話をお聞きしました。

松山:はい。このあたりは弓道がたいへん盛んです。炭坑が全盛期の頃、東大医学部を出たお医者さんで、一高の弓道部OBの方が三井炭坑に着任された。その方が弓道部を立ち上げ、田川東高校の道場で教えるようになり、そこに一般市民も加わった。すると、1期生がいきなり強くなって国体出場。自分は3期生で弓道部キャプテンを務め、国体にも出ました。進学した福岡大学でも弓道部のキャプテンを務め、全国大会で準優勝しました。

それもこれも、炭坑が良い人材を集めたおかげですね。クラシック音楽なんかでも立派な方が来られた。このあたりは炭坑があるおかげで人が集まったことで、文化度も高いんでしょうね。金田駅の裏のドームの横にあるまちの弓道場(福智町弓道場)の建設も、市町村合併の時に実現しました。福岡県の第2弓道場として、県内からもたくさんの人が利用しています。

なるほど。炭坑は閉山しても、そのときに培われた文化的な遺産や素養が今に引き継がれているということですね。今日はどうもありがとうございました。

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店内に貼られた弓道の写真

聞き取り後記

松山さんへの聞き取り後、付近の金田商店街を歩きました。炭坑で活気のあった往時と比べれば本町通も新町通も静かになり、街並みも変わりましたが、松山内装のように業種を変えながらも今でも同じ土地で営業を続けている商店や、「ふくちまちおいしい探訪 〜小西みそ編 その1〜」でも取り上げられた小西みそのように、炭坑より前から続く商店も見受けられ、歩いてみると随所に歴史が感じ取れました。

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現在の新町通

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新町通にある小西みそ

また、松山さんが教えてくれた、刀鍛冶の弟子たちが建てたという大叔父の記念碑を見に神崎の墓地を訪ねました。

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松山家の墓の横に立つ「松山光宏の碑」

碑文には以下のように書かれていました。

「松山氏中津藩士天正年神崎ニ住ス 当主光宏氏若年京阪ノ地ニ技ヲ畳調製ニ学ヒ明治三十八年職ヲ金田ニ営ム 業務日ニ栄エ其子弟ヲ養フヤ親切且熱心皆徳ニ懐キ又技ニ熟ス 吾等感激茲ニ碑ヲ建テ文ヲ勒シ以テ師恩ニ報ユ 師ニ武蔵健蔵ニ弟アリ健蔵氏ハ筑前吉塚小山家ヲ嗣キ左文字信光ノ名刀剣界ニ高シ家亦盛ナルヲ悦フ」※勒の字は録の字の当て字と思われる

基壇には弟子たちと思われる人物の名が12名刻まれていました。

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陰影をつけて碑文を読む

菊地暁[民俗学者]
京都大学人文科学研究所助教、博士(文学)。民俗学とは人々の「しょーもなさ」と「せつなさ」に寄り添い続ける学問であると思っている。調査地は大日本帝国をカバーしつつあり、調査テーマも「どっからでもかかってこい」状態になりつつある。著書『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』(2001)、編著『身体論のすすめ』(2005)、共著『今和次郎「日本の民家」再訪』(2012)など。

本間智希
京都を拠点にフィールドワークをベースに活動するリサーチャー。静岡山奥の祖母の家に憧れつつ東京郊外の団地で育ち、早稲田大学で建築史を学び、京都で建築リサーチ集団RADに参画。最近では千年つづく村を歩きまわり、よくドローンを飛ばしている。いいタイルやトタンを見ると思わず触れてしまう。

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