photo: Satoshi Nagano

「ふくちのち」をあるく その4ー赤池マーケットと“白い煉瓦”

2017/02/27

「ふくちのち」をあるくフィールドワーク。第4弾は、旧赤池町に今も残る赤池マーケットを訪ねてみました。そこではどんな発見があったのでしょう?

本間:旧赤池町には昔ながらのマーケットが残っているということで、赤池マーケットに行きました!
惠谷:ものすごい存在感だったね! ここの建物の特徴はどんなところにあるんでしょうか?
本間:「コの字」型に並んだ店舗の通路の上に、木造アーケードが掛かっていますね。平屋建てで緩やかな勾配の屋根なのですが、一方で、建物の軒の上に方杖で和小屋組の屋根を組んで、屋根材に波板ポリカーボネイトを使うことで、閉塞感を感じさせない工夫が見られ、ヒューマンスケールな路地空間の印象を与えますね。
惠谷:たしかに、心地良い囲われ感があって、奥まで入ってみたくなるアーケードでした!

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赤池マーケット全景。簾が掛かっているところが現役の駄菓子屋さん photo: Tomoki Homma

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木造アーケードが掛かるマーケット内部 photo: Tomoki Homma

惠谷:入口で今も営業を続けている藤田玩具・種物店さんは、今では珍しい昔ながらの駄菓子屋さんでした。
本間:子どもの頃によく食べた懐かしい駄菓子がたくさん売っていて、川嶋さんたちとも「この駄菓子は食べたことある!」「新しいのが出てる!」と、会話が盛り上がりました。思わず、小さい買い物カゴにいっぱい入れて大人買いしたくなりますね!
惠谷:今お店をされているお母さんにお話をお聞きしたところ、今のご当主のおばあちゃんが戦後に創業されたそうで、最初はお花や種もの、おもちゃなども売っていたそうです。ずっとおばあちゃんが1人で続けておられたそうで、その方が亡くなって、3年前に今のお母さんが2代目として受け継いだということでした。
本間:いつ頃赤池マーケットができたかは正確には覚えていないとおっしゃっていましたが、創業したおばあちゃんが60年は続けていたとおっしゃっていたので、戦後まもなくできたマーケットじゃないかなと思います。
惠谷:ご近所さんが藤田さんのお店に遊びに来ていましたが、子どもの頃から「このあたりは炭坑の人ばかりでとても賑わっていたのよ」と教えてくれました。
本間:そういえば、昭和51年に赤池町の商工会が調べた赤池マーケットの店舗図が、『赤池町史』に掲載されていますよ!

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昭和51年の赤池マーケット(『赤池町史』赤池町史編纂委員会編、昭和52年刊行より転載)

惠谷:業種のわかるお店だけでも、食料品、衣料品、薬屋、時計屋さんなどがあって、ここだけで生活に必要なものの多くが揃ったのでしょうね。赤池炭坑もすぐ近くだったので、赤池マーケットは地域の商業施設の中心になっていたことがよくわかります。
本間:赤池マーケットで今でも営業しているお店は3軒ですが、私たちが藤田さんのお店にいた間でも、ご近所さんがお話しにきたり、放課後には子どもたちが駄菓子を買いに来ていて、まちの小さなコミュニティの場になっていました。

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赤池マーケットで駄菓子屋として営業を続けている藤田玩具・種物店 photo: Satoshi Nagano

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藤田玩具・種物店2代目のお母さん photo: Satoshi Nagano

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藤田玩具・種物店内部には先代が飾ったものがそのまま大事にされている photo: Satoshi Nagano

本間:ところで、赤池マーケットの裏手にちょっと変わった壁を見つけました。
惠谷:クリーニング屋さんのある、植物が生い茂っている赤煉瓦のところですね!
本間:そうですが、注目したいのは赤煉瓦ではなく、“白い煉瓦”の方です! これは「鉱滓(こうさい)煉瓦」という素材で、金属精錬後の鉱滓=スラグを原料にできた煉瓦なんです。

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赤池マーケット裏 photo: Satoshi Nagano

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“白い煉瓦”こと鉱滓煉瓦 photo: Satoshi Nagano

惠谷:「鉱滓(こうさい)煉瓦」ってどういうものなの?
本間:これは福智町が中心ではないのですが、北九州という地域の特色を表した素材なんです。同じ福岡県の八幡市で、1901年に創業した官営八幡製鉄所が深く関わってきます。
惠谷:なるほど、広い地域で考えることも大事ですね。
本間:技術的には1865年にドイツで発明されたものですが、日本でも、官営八幡製鉄所の副産部門の黒田泰造という人物が中心となって、ドイツの技術論文などから技術を学びながら実験を重ね、1907年に日本で初めての「鉱滓煉瓦」を開発したそうです。
惠谷:副産部門という部門があったんだ!
本間:そのようですね。創業以来、製鉄作業で銑鉄1トン辺り約300kgも生成される高炉スラグの有効利用が課題だったそうです。
惠谷:炭坑でいうところのボタと同じように、廃物利用ということですね。
本間:鉱滓煉瓦は、高炉での銑鉄生成の際に炉底に溜まった鉄鉱滓を水で急冷し、細かく粉砕し、消石灰と水を加えた後に、加圧整型し、乾燥させて完成させます。当初は天日干し乾燥で、その後は蒸気養生で製造したそうです。特徴としては、赤煉瓦に比べると、耐圧力が強く吸水量が少なくて、焼成しないので煉瓦のように形の変形がなくどんな形にでも整形可能なので、装飾としても利用可能だったそうです。セメントブロックに似た性質と言えますね。
惠谷:なるほど。シャモットはボタ(炭滓)が燃えてできた素材ですが、鉱滓煉瓦は焼かない素材なのですね!
本間:シャモットは白に桃色が混じったような不思議な色味でした。鉱滓煉瓦は、灰色がかっていますが、経年とともに白さが増していくそうです。
惠谷:赤池マーケットでは腰の高さまでを赤煉瓦で積んで、鉱滓煉瓦を使ってパターンをつくるなど、装飾的な意識が感じられますね!

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旧赤池町の市場で見つけた民家の塀にも鉱滓煉瓦 photo: Satoshi Nagano

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旧赤池町の上野にある戸渡神社の塀にも鉱滓煉瓦 photo: Satoshi Nagano

惠谷:意識して歩いてみると、至るところに鉱滓煉瓦が使われていましたね!
本間:“白い煉瓦”センサーが高まりましたね(笑)。鉱滓煉瓦は、灰色・堅牢・廉価ということから、当時は八幡製鉄所の周辺の大規模建築で鉱滓煉瓦造もしくは一部鉱滓煉瓦造の建物が次々に建築されたそうです。やがて流行して、現存する鉱滓煉瓦造の構造物の調査研究が進んでおり、北九州のみならず、岐阜や高知、室蘭や釜石などでも建物に使用されたと黒田の論文や既往研究で言及されています。東京では京王井の頭線の渋谷トンネルの一部に鉱滓煉瓦が使われているそうですよ。建造物ではないですが、北九州を中心に鉱滓煉瓦は広く流通し、一般家庭の塀や倉庫、溝、台所などでも愛用されて多く普及したそうです。
惠谷:福智町では、特に旧赤池町に多い気がしました。方城炭坑のあった旧方城町の方ではあまり見つけられなかった気がします。同じ炭坑のまちと言っても、製鉄業の盛んだった八幡市など北九州との流通・往来に違いがあったのかもしれないね。
本間:歴史資料館ができたら、そのあたりの広域での比較もできたらおもしろいでしょうね! 
惠谷:今の行政区分としては福智町でまとまっていますが、旧三町(旧赤池町・旧金田町・旧方城町)それぞれの地域の歴史を尊重することも大切ですよね。
本間:ひとつの地域だけでなく、広く視ることでわかってくることも多いですからね。
惠谷:まちの風景が多様であることが、地域の豊かさにもつながっていくんだなって思います。

* * *

鉱滓煉瓦に関する参考文献
・黒田泰造「鎔鑛爐鑛滓の利用及鑛滓煉瓦の話」社団法人 日本化学会  工業化学雑誌 14(6), 550-557, 1911
・黒田泰造「鑛滓煉瓦と日本の健築物」社団法人 日本化学会  工業化学雑誌 17(4), 404-407, 1914
・黒田恭造「鑛滓煉瓦と日本の建築物」鐵と鋼 : 日本鐡鋼協會々誌、1915
・市原猛志「地域固有の素材を用いた構造物の分布に関する調査研究 – 鉄鉱滓煉瓦造構造物を例として」一般社団法人日本建築学会 学術講演梗概集. F-1, 都市計画, 建築経済・住宅問題 2011
・北九州イノベーションギャラリー「産業技術年表」1910年(明治43)|生命・環境
http://kigs.jp/db/history.php?nid=2498&PHPSESSID=8ab6d96e143c47cdec3a2f9f7(2017年1月18日 11:30取得)

本間智希
京都を拠点にフィールドワークをベースに活動するリサーチャー。静岡山奥の祖母の家に憧れつつ東京郊外の団地で育ち、早稲田大学で建築史を学び、京都で建築リサーチ集団RADに参画。最近では千年つづく村を歩きまわり、よくドローンを飛ばしている。いいタイルやトタンを見ると思わず触れてしまう。

惠谷浩子
奈良文化財研究所の研究員として文化的景観の研究に携わる。四万十川流域や宇治、京都岡崎をはじめとする全国各地の文化的景観の調査に没頭中。専門は造園学。自然と歴史のなかで育まれた土地独特の風土や知恵(美味しい食べ物含む)をこよなく愛する。

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