上野焼再発見PROJECT

あらためて知る上野焼の歩み

上野焼を知るそして受け継ぐ

400年以上、

福智町の土地に根付く

上野焼の歴史とその特徴を、

今一度紐解きます。

AGANOYAKI

上野焼再発見プロジェクトについて

福智の土地で、長い歴史で途絶えることなく発展してきた
上野焼を今一度見つめなおし、
私たちの財産として育てていきたいという思いから、
金沢大学・電通・「ふくちのち(福智町立図書館・歴史資料館)」が共同研究として、
上野焼を再発見するプロジェクトを行いました。

上野焼について知っていただき、その魅力をお伝えするため、
当サイトではこの共同研究から明らかになった上野焼の歴史と特徴を、
ご紹介しております。

※当サイトでご紹介する内容は、金沢大学の丸谷耕太先生の研究をもとに制作しております。

  • 一/上野焼の歴史 発祥から現在まで

  • 上野焼の発祥

     上野焼は16世紀の終わりから17世紀初めの頃に、豊前国の藩窯として始まった。毛利家、細川家、小笠原家が歴代の藩主を務め、廃藩置県が行われた明治4年(1871)まで藩の支援のもとで生産が続けられた。
     上野焼の開祖は朝鮮国泗川県十時郷から日本に渡ってきた陶工である尊楷であるといわれている。上野家の史料『先祖由緒記』によると、尊楷が、文禄・慶長の役(1592-97)の際に加藤清正の帰国に従い日本にやって来て、そののち慶長7年(1602)に豊前に入った細川忠興に召し抱えられて上野で開窯したことに始まると伝えられており、これが通説となっている。一方で、上野家の別の史料『上野家歴代ノ御征当記升ニ伝記』では、尊楷が細川忠興の入国前に豊前を治めていた毛利勝信に従って上野村で開窯したと伝えられている。現時点ではこれらの2つをもとに諸説が展開されているものの、上野焼の始まりは、文禄元年(1592)から慶長7年(1602)の間と考えられている。

  • 元和-明治中期

     元和6年(1620)に細川忠興は病気のため三男の忠利に家督を譲り、自らは中津に隠居、出家し「三斎宗立」と名乗った。寛永9年(1632)に細川忠利が豊前から肥後熊本の領主として移封され、忠興は八代城に入った。この細川忠興・忠利が豊前から肥後に移った際に、尊楷は長男の忠兵衛と次男の藤四郎を引き連れて共に肥後へ移った。尊楷は肥後八代の髙田村で八代焼として知られる高田(こうだ)焼の窯を開き、その後承応3年(1654)に没した。
     上野には、尊楷の三男の孫左衛門甫久と、尊楷の娘婿の渡久左衛門高利の二人が残り、孫左衛門の十時家・久左衛門の渡家の両家は代々小笠原氏の御用陶工を拝命した。
     十時家・渡家・吉田家の三家は藩の御用窯として上野焼の生産を続けてきたが、明治4年(1871)の廃藩置県により小笠原家が東京に移住した後は藩の支援を失い独力で生計を立てざるを得なくなり、明治の中頃に一時上野焼の生産を休止している。

  • 明治後期-昭和

     その後、熊谷九八郎が明治34年(1901)に上野村の郡会議員の伊藤辰次郎に相談し、田川郡会に請願して地方産業奨励のために2年間で400円の補助金を獲得し、明治35年(1902)に熊谷本窯をおこし、上野焼の伝統を存続させた。昭和13年(1938)には渡家の6代久之丞の次男忠蔵の子孫である渡源彦が、肥後八代から尊楷の子孫である上野勝蔵などを招いて窯を復興した。渡源彦は昭和17年(1942)に他界するが、昭和39年(1964)に養子縁組になった世良正之(渡久兵衛)が再復興している。十時家は、昭和17年(1942)以降に上野焼十時窯として開窯した。さらに、昭和12年(1927)には高田得實が青柳と養子縁組になり青柳不老園を開き、昭和14年(1939)に、熊谷九八郎と共同出資をしていた高鶴萬吉の親戚である高鶴鱗作が自宅に窯を築いた。昭和30年(1955)には高田利明が青柳不老園から分窯して、高田窯を開いた。このようにして、一時休業にあった上野焼は伝統を維持しながら、さらにはその窯元数を増やして現在に至ることとなった。

  • 昭和-現在

     昭和49年(1974)年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(以下、伝産法)が制定され、上野焼は昭和58年(1983)に伝産法で指定される伝統的工芸品に認定された。「100年以上の歴史を有すること、また10企業30人以上の従事者がその製造に携わっていること」が認定への要件となっていた。明治初期の衰退期に地元住民の努力によって断続的ながらも作陶が続けられ、数々の窯の再興が果たされたことが、伝統的工芸品の認定に大きな影響を与えていたことは疑うべくもない。
     現在でも、上野焼を振興させようとする取り組みは多く行われている。上野地区の「上野焼陶芸館」の設立や、「ギャラリー陶」「喫茶あがの」「ふれあい市」では上野焼と組み合わせた企画が行われている。また、上野焼自体も、大学との共同開発によって「ユニバーサルデザイン」化や、若者向け商品の「バレンタイン猪口」など新商品の開発などを通し、現代のトレンドを取り込み続けている。

  • 二/上野焼の特徴

  • 風土を求めて

     上野焼の窯跡は、福智町に位置する釜ノ口窯・岩屋高麗窯・皿山本窯、そして小倉に位置する菜園場窯の4つが存在する.現在の上野焼は赤池の上野皿山で生産されていることで知られているが、窯跡は赤池の上野堀田、方城の上弁城岩屋にも位置しており、歴史的にみると上野焼はより広い範囲でされていたことが分かる。文禄・慶長の役(1592-97)の前後には、北部九州で多くの窯が開かれたが、いずれもその土地で原材料となる陶土や陶石が産出されることは立地条件として重要であった。
     慶長から寛永の上野焼の初期創業時には、1)地元で採土されたと思われる、耐火性の強い陶土と、2)もうひとつはそれを精製したものか又は別に産出した綿密な陶土、の大きく2種類の良質な陶土を使用していた。これらの土は良質で、細川忠利の命により原材料となる土や釉薬の全てを上野から小倉に調達したという記録もある。
     初期の上野焼では、限られた陶土を用途に合わせて使用していたが、小笠原の時代になると様々な種類の陶土が発見された。『万々代控』には御用土として伊方土・市場土・笹尾土・夏吉土の4種が挙げられ、それぞれの用途についても指示されている。

  • 小笠原時代の御用土とその用途

    種類
    伊方土
    夏吉土
    市場土
    笹尾土
    産出場所
    伊方(金田)
    夏吉(田川)
    市場(赤池)
    皿山(赤池)
    用途
    御濃茶、中服、小服の茶碗
    御煎茶茶碗、一輪立
    手水鉢、水壺
    水差、建水、花生

    各出土場所をクリックいただくと、本研究によるおおよその場所をご覧いただけます。(Google マップへ遷移します)

  • 釉薬と技法

     現在の上野焼は多彩な釉薬を使用する表現の豊かさが特徴になっている。代表的な釉薬として、銅系釉:緑青流し・総青、鉄系釉:黒・飴・紫蘇、黄釉:金肌のほか、銅と鉄を混合した三彩釉、長石を使用した透明釉、藁灰を使用する藁白釉などがある。
     透明釉に使用する長石は、上野の白糸の滝付近で良質のものが採れる。また、これまでの研究によると、釜ノ口窯・岩屋高麗窯・皿山本窯の初期の作品は一様に共通しており、使用される陶土や釉薬には共通したものばかりで、土灰釉と鉄釉の2つに化粧釉の3つの釉薬を組み合わせており、他の異なる種類の原材料は使用していないとされる。そして、これらの釉薬をもとに、「飴釉」、「斑唐津」、「黄釉」、「青」、「黒」、「白のナマコ」などが生まれてきた。
     小笠原の時代になると、前述したように多彩な釉薬、多様な技法が導入され、技巧的な作品が多く作られるようになった。安永5年(1776)以降に楽焼の研究が行われており、そこからは「上野三彩」、「玉子手」、「木目」などの技法が生まれた。また、天明年間(1781-1788)には高田焼の藤四郎から技法を学ぶなどして、「象嵌」や「型文」、「刻文」、「刷毛目」など多くの技法が網羅されながら生産されている。

  • 緑青に焼ける

     緑青を代表とする、これら上野焼の釉薬(上野釉)として一般に知られているものの多くは、江戸中期以降の小笠原の時代に発達したと考えられている。緑青釉は、創業から200年近く経った寛政2年(1790)の『萬々代控』の記録に初めて現れる。上野周辺には「採銅所」という場所があり、領内から酸化銅を調達して原材料としていており、この地理的条件から「緑青流し」の技法は上野固有の特徴として重要視され、認知されていた。当時、酸化銅の釉薬は高価であったために、特別にその購入費を藩に仰いでいたという記録も残っている。また、ここで産出される酸化銅は金銀の成分が豊富であり、その含有物によって焼成時に斑点が抽出されるため、上野固有の雅趣に富んだ青釉が生まれるともいわれている。

  • 三/上野焼の用途と思想

  • 三斎好み

     上野焼は、その創業から明治になる頃まで、茶陶に通じた藩主の支援や指導を受けながら、各時代に求められる焼き物を生産していた「御用窯」と考えられている。藩主の指示の下、1)藩主御用の陶器のほか、2)藩家中及び民間の特別注文品、3)一般の民間用の製品・雑器類、が生産されていた。
     上野に尊楷を連れてきて上野焼を始めた藩主が毛利勝信か細川忠興かに関わらず、細川忠興については、いわゆる「三斎好み」と呼ばれる焼き物について、窯跡からの出土品や伝世品からその強い関与がはっきりしている。過去の釜ノ口の発掘調査によって、出土品の特徴として皿や碗に非常に高い高台をつけていることが発見されている。これは唐津焼・高取焼などにはない、上野焼独特の手法で、「三斎好み」ではないかと推察される。また別の研究によると寛永17年(1640)に京都吉田で開かれた細川忠興の茶会記に、小倉焼として割山椒の向付と、「三斎好み」の瓢箪水差の記録があることが明らかになっている。

  • 茶陶の趣

     伝世品や窯跡からの陶片、茶会記に出てくる上野焼とを比較する中で、上野焼の御用陶器としての「三斎好み」と考えられるものとして、1)馬足型、2)瓢箪型、3)ツヅラ大ウネリの3つが挙げられる。小倉の菜園場窯で焼かれたと思われる小倉焼茶碗が現存し、代表的な古上野として伝えられている割山椒の向付と形も釉薬(土灰釉)も類似しており、同じものだと推察される。
     上野焼においては、上述したような藩主の指導だけでなく、茶人の指導を受けて茶陶となる器を生産していた。利休のわび茶・古田織部の大名茶・小堀遠州のわび茶から金森宗和の雅な茶へと、茶の湯の傾向が移り変わると共に、茶器の制作も変わっていったといえるだろう。

  • 遠州七窯

     上野焼については小堀遠州として知られている小堀政一(1579-1647)が指導した、あるいは好んだ窯を全国に七ヶ所指定したと言われる「遠州七窯」としても知られており、嘉永7年(1854)に書かれた京都の道具商梅軒田内米三郎の『陶器考』には、以下の7つの窯が記載されている。
     史料が少ないものの、茶人の指導により良質な焼き物を目指して上野焼は生産されていた。一方で、時代や趣向に応じてお茶の世界が多様に広がり、それに適応しながら上野焼における茶陶としての器も様々な形で作られてきた。江戸時代中期には、従来からの抹茶茶碗に加えて煎茶が流行し、煎茶用の煎茶茶碗、白湯・番茶用の湯呑茶碗も用いられるようになった。『万々代控』には、既に濃茶の他に煎茶用の茶碗が生産されていたことが記されている。

    7つの窯
    志都呂焼(遠江国:現静岡県)/朝日焼(山城国宇治:現京都府)/膳所焼(近江国:現滋賀県)
    古曽部焼(摂津国:現大阪府)/赤膚焼(大和国:現奈良県)/高取焼(筑前国:現福岡県)/上野焼(豊前国:現福岡県)
  • そして日常に

     藩窯としての茶陶生産の他に、民間の日用品の生産も上野焼創業初期から行われている。元和8年(1622)の『小倉藩人畜改帳』では、釜ノ口窯と岩屋高麗窯に複数の焼物師と売子がいたことが記録されており、この時期に存在した2つの窯では、生産された焼き物が一般に販売されていたことが分かっている。一般を対象とした日用品としては、徳利や皿、壺、擂鉢、片口や土瓶、花入や花器、などが見つかっている。
     19世紀初頭の文化の頃から刻まれるようになった陶印の分析から、上野焼の生産に携わっていった十時家と渡家に18世紀初頭の宝永・正徳の頃に加わった吉田家は、民需用の製品を多く制作していたと考えられている。
     このように、上野焼は茶陶の世界だけでなく、一般の生活を支える産業としての性質も持ち合わせていた。現在まで茶陶としての上野焼の特徴となる薄造りを基本としながら、日用品の生産が続けられている。